状況が絶望的で、どうしようもないように思える時はどうすべきでしょうか?
【使徒の働き16章16-34節】(中略)看守は、二人を奥の牢に入れ、厳重に足かせをかけました。真夜中ごろ、パウロとシラスは、主に祈ったり、賛美歌をうたったりしていました。
パウロとシラスはイエス様について伝えたために牢獄で死刑を待つ身でした。しかし、これほども絶望的な状況になっても二人は神様に向けて賛美の歌を歌っていたのです。なぜでしょうか?それは永遠を見越していたからです。
【箴言10章28節】正しい人の望みは永遠のしあわせにつながり、悪人の期待は水の泡と消えます。
この地上での生活においてどんなに状況が絶望的に思えても、イエス様がいらっしゃるので私たちには究極の、永遠に続く希望があります。キリストを知らない人々は自分の絶望感にひたすら埋もれるしかありません。
【詩篇27篇14節】いらだってはいけません。主を待ち望みなさい。(中略)勇気を出しなさい。
希望をいだくというのは、神様がご自分の定められた時に動いてくださると信頼することを意味します。
神様に希望を託し、神に頼るにはどうすればいいのでしょうか?
【詩篇71篇5節】ああ、神様だけが頼りです。幼いころから神様に頼ってきたのです。
将来を支配しておられるのは神様だけではありませんか?永遠に続く住家をご用意してくださっているのは神様だけではありませんか?私たちの罪を赦してくださるのは神様だけではありませんか?永遠に続くいのちをくださることができるのは神様だけではありませんか?神様が私たちの希望であり、頼れる存在なのですね!
【ローマ8章24節】私たちは、このように信じて待ち望むことで救われています。信じて待ち望むことは、今は待っていなくても、やがて与えられると確信して待つことです。すでに待っている人は、神様が与えてくださると期待したり、信じて待ち望んだりする必要はありません。
救いとはキリストを信頼し、約束してくださったことをことごとく実行してくださると信じた結果として与えられるものです。希望とは、イエス様が永遠のいのちをくださり、私たちはイエス様と永遠に天国で暮らせると期待することです。これらのことは今の私たちはまだ見えないものですが、核心が伴う希望をいだくことはできます。その希望は、最も信頼に値するお方への信頼を根拠としているからです。
【ヘブル11章1節】信仰を、どう定義したらよいでしょう。それは、願い事が必ずかなえられるという、不動の確信です。また、何が起こるかわからない行く手にも、望みどおりのことが必ず待ち受けていると信じて、疑わないことです。
わたしたちには、神様が約束してくださったことを必ず実行してくださるという信仰があり、この進行は絶対なる確信といえます。ですから、私たちのいただく希望は根拠のないただの希望ではなく、神様の信頼性というしっかりとした基盤をもとにした希望なのです。
【ピリピ3章13-14節】(中略)すなわち、過去に執着せず、前にあるものを望み見、ゴールに到着してほうびを得るために、一生懸命努力しているのです。このほうびを与えようと、神様は、私たちを天へと召しておられるのです。それは、キリスト・イエスが成し遂げてくださったことに基づくのです。
神様はご自分を信じる人々に悪や絶望が襲うように計画されることは決してありません。そして、神様の最終的な計画とは、私たちに傷みも悲しみも苦しみも永遠に消え去った天国で神様と永遠に暮らすいのちをくださることです。
■ 神様の約束:詩篇65篇5節
神様は、恐怖におののかせるような行為や、恐ろしい力を駆使して、私たちを敵から救い出してくださいます。神様は、世界中の人々にとって、唯一の望みなのです。