自分の信仰を疑ってもいいのでしょうか?
【詩篇95篇9節】あの時、あなたがたの先祖は、わたしの奇蹟を何度も目にしながら、信じようとしなかったのです。わたしの忍耐は、彼らの不平やぐちで、ぎりぎりのところまで試されました。
神様は、私たちが神を信じるようにたくさんの証拠を見せてくださいました。疑いとはこれらの証拠をじっくり見る時間をかけない時にやって来るものです。また、疑った結果として神様を以前ほど信頼しなくなってしまうと、神様を完全に無視してしまう身になる危険すらあります。
【ヨハネ20章27-29節】(中略)いつまでも疑っていないで、信じなさい。
疑うということは、何のために疑っているかによって健全であったり、逆に破滅を呼び込む場合もあります。
【ヤコブ1章6節】疑う心は、風に波立つ水面のようで、少しの落ち着もありません。
サタンが使う手口のひとつは、神様が私たちに良くしてくださるという信仰を疑わせようとすることです。神様が私たちにくださったすべてのものを忘れさせようとし、逆に今の私たちにはないものばかりに目を向けさせようとするのです。あなたも、常に自分が持っていないものについて考えてばかりであれば、不健全なたぐいの疑いを持ち始めているのかもしれません。
何があっても決して疑ってはいけないものもあるのでしょうか?
【エペソ1章14節】私たちのうちに住まわれる聖霊様は、神様が約束のものを全部ほんとうに与えてくださる、という保証でうす。(中略)神様がすでに私たちを買い上げ、ご自分のものに引き取ってくださることを、保証するのです。
【ヘブル13章5節】神様は、こう約束しておられるからです。「わたしはどんな場合にも、あなたの期待にそむかず、あなたを見捨てない。」
私たちは何があっても決して救われた事実を疑ってはいけません。いったんクリスチャンになった身であれば、サタンは何があっても私たちを神様から奪い去ることはできないのです。
【第二コリント6章2節】(中略)まさしく今、神様はあなたがたを、(中略)救おうとしておられます。
私たちは何があっても神様が私たちをいつも助けたいと思っておられること、そして神様には助けられない状況は絶対にないという事実を決して疑ってはいけません。
■ 神様の約束:マルコ11章223節
(中略)よく言っておくが、あなたがたでも神を信じさえすれば、このオリーブ山に「動いて、海に入れ」と言っても、そのとうりになります。大切なのは、信じて疑わないことです。