人が死ぬとどうなるのでしょう?
【第一テサロニケ4章13-18節】(中略)クリスチャンが死んだらどうなるか、よく知ってほしいのです。
【第一コリント15章52節】 (中略)店からラッパの音が響くと、死んでいたすべてのクリスチャンは、たちまち、絶対に死なない、新しい体に復活します。
【黙示録14章9-12節】 その苦しみの煙は、昼も夜も、一息入れるひまもなく永遠に立ちのぼる。獣とその像を拝み、獣の名のいれずみをしたからだ。
【黙示録20章15節】 いのちの書に名前の記されていない者はみな、火の池に投げ込まれたのです。
【黙示録21章3節】 (中略)「ごらんさない。神様の住まいが人々の間にあります。...」
クリスチャンが死ぬとその人は神様に会い、永遠に神様と共に天国で暮らすのです。クリスチャンではない人が死ぬとその人は永遠に天罰を受け続ける運命となります。
死について、どういうとらえ方をしたら一番良いのでしょうか?私はなぜ死がこんなに怖くてしょうがないのでしょうか?
【コロサイ3章1-3節】 キリスト様が死人の中から復活された時、あなたがたも、いわば共に生き返ったのですから、天にある無尽蔵の富と喜びに、目を向けなさい。(中略)天国のことで心が満たされていなさい。
【第二コリント5章10節】(中略)〔すなわち、私たちが死んでこの肉体を離れると、〕天にある新しい体、永遠に保証された家がいただけるのです。
未知のものに対する恐れを抱くのは人間ならばごく自然のことであり、死に対する恐れも、それが神について知ろうという気持ちにつながるのであれば健全な恐れにもなりえます。死とは終わりではなく、始まりとして考えていると役に立つかもしれません。死とは、天国で神様と一緒に過ごす永遠への入り口なのです。
【ピリピ1章21節】 なぜなら、私にとって、生きることは、キリスト様のために良い機会を得たことを意味し、死ぬことは、さらにすばらしいことを意味するからです。
死にたいする恐怖心がある時は、神様の関係が弱いことから来ている場合もあります。人生を精一杯生きるには、いつ死んだとしても自分に対して悔いのない毎日を生きていなければなりません。
【ローマ8章10節】 ところで、キリスト様がうちに住んでおられるとしても、あなたがたの体は、やはり罪のために死にます。しかし、あなたがたの霊は生きるのです。キリスト様があなたがたの霊を赦してくださったからです。
私たちは、キリストを受け入れると永遠のいのちが与えられます。それで肉体の死を防ぐことはできませんが、永遠にキリスト様と天国で一緒に過ごせるという真のいのちを得た確証があります。そしてこの永遠に続く人生こそが最も価値ある人生といえるのではないでしょうか?
私たちは死んだ人生において今のこの肉体のままで過ごすのでしょうか、新しい肉体が与えられるのでしょうか。それとも肉体はない霊のままでしょうか?
【 第一コリント15章42節】 同じように、死んだら朽ち果てる、私たちの地上の体は、復活の時に与えられる体とは異なったものです。復活の体は決して死にません。
私たちの今の肉体は病気にかかったりして負担となります。年を経るとともに老いて劣化していきます。このような体で永遠に過ごしたいとは思わないでしょう。数年年も生きたらどんなにたくさんの肉体的な問題に見舞われるか想像してみてください!私たちが死ぬ時は、神様が与えてくださる新しい体を歓迎し、今までの体はおいて行きたくなるに違いありません。
■ 神様の約束:ヨハネ11章25節
このわたしが、死人を生き返らせ、もう一度いのちを与えるのです。わたしを信じる者は、たといほかの人と同じように死んでも、また生きるのです。