心配することが罪になるのはどういう時でしょうか?
【マタイ13章22節】また、いばらの生い茂った地というのは、神のことばを聞いても、生活の苦労や金銭欲などがそれをふさいでしまい、しだいに神から離れていく人のことです。
【コロサイ3章2節】天国のことで心が満たされていなさい。地上のことをあれこれ気に病んではいけません。
この世での生活に関する心配事のせいで、神様のことばが人生のしっかりとした基盤ではなくなってしまっているのであれば、そういう心配は罪になります。
私はなぜこれほども心配性なのでしょうか?これほど心配しなくなるようにするにはどうすればいいでしょうか?
【詩篇55篇1-5節】(中略)私は身ぶるいし、おののいています。
身を脅かす状態に遭遇した人間は恐れたり、心配したりするのはごく自然な反応といえます。
【マタイ6章25節】ですから、食べ物や飲み物、着物のことで心配してはいけません。
私たちは神様の約束を思い出し、神様を信頼することによって、心配や懸念と戦うのです。
【ピリピ4章6節】何事も心配してはなりません。むしろ、どんなことでも祈りなさい。
私たちは思いわずらっていることをイエス様の御手にゆだねることによって、心配と戦うのです
【詩篇62篇2-8節】(中略)神様こそ私の岩、私を救うお方、そして私のとりでです。
私たちは救いの約束をいただいているので、そんなにおそれなくてもすみます。
【マタイ6章25-27節】(中略)だいたい、どんなに心配したところで、自分のいのちを一瞬でも延ばすことができますか。
私たちが神様の国を優先し、これに心を集中すれば心配事にがんじがらめにされることはなくなります。
■ 神様の約束:第一ペテロ5章7節
思いわずらいや心配事をすべて、神様にお任せしなさい。というのも、神様のほうで万事、心にかけていてくださるからです。